さまざまな事情から、大人にかわって、家事や、兄弟の世話や介護などを担っている子どもたちがいる。そんな子どもたちは、「ヤングケアラー」と呼ばれ、認知されるようになってきた。
でも1年ほど前、わたしの暮らす岐阜で出会った和也くんは、その『ヤングケアラー』の範疇におさまりきらない困難を抱えていた。
和也くんは外国籍のお母さんとふたりで暮らしていた。彼が中学生の頃から、母は重い病を患い入退院を繰り返していました。母の入院中は、和也くんはひとりで家で暮らしていた。彼が高校を卒業し専門学校に入学した頃、母は亡くなった。
その後、家賃の滞納、学費の未納などが生じたことで、彼は福祉の支援機関に相談に行ったけれど、そこで言われたアドバイス(?)は
「学校を辞めて、働くしかないね」だった。
さらに提案されたのは、「母と暮らしていた家は引き払い、母が亡くなるまで音信不通だった父の家で一緒に暮らしてみてはどうか」というものだった。
父は、子どもの援助をしたくても、自分の暮らしだけで精一杯の状況。
一度も暮らしを共にしたことのない父とワンルームのアパートで生活をすることを彼は望まなかった。
「支援機関からの提案をどうしても受け入れられない」と友人に相談したことから、ゆずりはにつながった。
初めて会った時、彼はほとんど何も話さなかったけれど、小さな声で伝えてくれたのは、「学校、辞めたくないです」の一言だった。
ゆずりはは東京を拠点とした相談所でもあり、できることは限られていたが、彼が学校と今の住居に住み続けられるように、学生支援機構の給付型の奨学金と民間の奨学金の申請、生活費の確保、住居の継続のための手続きなどをサポートした。
アルバイトと学業を両立しての彼の頑張りと、学校の先生方の力添えもあり、無事に卒業できた。
この春、関東のIT系の会社に就職も決まり、彼から引越しの相談を受けた。
母と長年暮らしてきた3DKの住居の引っ越しにはたくさんの人手とお金が必要となり、廃品回収、断捨離作業も業者に依頼すれば、○十万円かかると言われた。
ゆずりはスタッフは皆東京在住のため、わたしの岐阜の悪友たちと、彼の学校の友人たちを中心に、支援職でないひとたちが引っ越しに伴う退去までのすべてのことを一緒に手伝ってくれた。
部屋には母のベッドや鏡台、洋服から何もかもがそのままだった。
「和也くん、これすててOK??」
「これは〜〜??」
あちこちから、おばさんたちが声をかけ、和也くんが首を縦に振ったり、横に振ったりした。
ヤングの友人たちは、エレベーターのない県営住宅の階段を5階まで登ったり、降りたりしながら、おばさんたちには到底運べない大きな家具をサクサクと運んでくれた。大変な作業を楽しそうに軽やかにやってくれ、和也くんもニコニコしていた。彼が学費の未払いで退学を迫られた時に、「辞めたくない」とあきらめなかった背景には、こんな素敵な友人たちの存在があったのだ。
彼に一度も会ったことのないおばさんたちが、一声かけたら、忙しいなかすぐに集まってくれたことも。
わたしは、嬉しくて、楽しくて、ありがたくて、涙が出た。
和也くんのように、母をケアするという時間はなくなっても、母との思い出でいっぱいの家で、ひとりで暮らしていくことの大変さを
彼の引っ越し作業を手伝う日まで、わたしは、全く想像できていなかった。
母が亡くなってから、何を残して、何を捨てていいのかわからなかっただろう。
ひとりで家ですごす彼にとって、「母の持ち物に触れたら、母との思い出が蘇ってくるかもしれない」という想像さえも、寂しく苦しく怖いことだったかもしれない。
引っ越し作業を一緒にやることは、彼ひとりでは手をつけられないままだったことに、彼が触れられる機会だった。
「ケアする」という役割がなくなっても、取り残された子どもたちの寂しさや喪失はあり続ける。
ケアを担うことから離れても、本人がケアされないまままでいると、大人になってから生きづらさとなって生まれてくることもある。
ヤングケアラーの真のニーズは、今後さらに見えてくると思う。
日々の暮らしを安心にしていくために、誰かの手を必要としているひとたちがいる。
手を差し出すのは、
誰かの手を必要としている人からでも
誰かの手になりたい人からでも、
どちらからでもいいし、同時でもいい。
差し出した手を 握りあって「一緒にやろうよ」って、軽やかに楽しくできたらいいな。
(所長 高橋亜美)